1月19日ーーちょうど1年前の今日、目黒考二さんが亡くなった。目黒さんといえば文芸評論家であり、競馬エッセイストでもあったが、なんといっても「本の雑誌」を椎名誠氏とともに立ち上げたことで知られている。実は、目黒さんにはお目にかかったことはないが、少なからずご縁を感じている(勝手に)。
それは「本の雑誌」の創刊にまつわるエピソードを綴った目黒氏の著書『本の雑誌風雲録』の中にこんな一節があるからだ。
「もし本多健治に話をしなければ、その『本の雑誌』は楽しいおはなしで終わっていたかもしれない。当時、『漫画アクション』の若き編集者で、やたらに好奇心の旺盛な青年だった」
ここに出てくる目黒氏と椎名氏の背中を押した本多健治さんこそが、私が会社をつくるきっかけを作ってくれた人だ。いや、きっかけなんてもんじゃない。「会社を作れ、作ればなんとかなる!」と背中をトゲトゲのついた鬼の棍棒のようなものでグイグイ押すようにして、あとに引けない状況にした張本人だ。
本多さんとの出会いは2003年に遡る。当時、ソニーが2004年に発売する予定の電子書籍専用端末用のコンテンツを集める仕事をしていた私は、いろんな出版社に出向き「御社の既刊本を電子化させてください!」とお願いして回っていた。
しかし当時は電子書籍といえば、電子辞書くらいしか普及していない時代。どの出版社に行っても「電子書籍って何?」と言われ、あっさり断られるのがおちだった。しかし、そんな中、本多健治さんが勤める双葉社は、早くから電子書籍の制作に取り組む数少ない出版社のひとつで、本多さんは窓口となるライツ事業部の責任者だった。
双葉社の1階の応接室で会った本多さんの第一印象は、はっきり言って「怖い」の一言。チェーンのついた老眼鏡を胸にぶらさげ、ごま塩の短髪にスーツ姿。名刺交換の後、私が説明する間、黙って話を聞いていた。その沈黙がまた怖かった。そして一通り説明が終わると、たった一言「電子書籍は売れないよ」と一刀両断。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。私は「いえ、これから売れるようにします!」と、今思えば、ずいぶんとおこがましいことを言って、本多さんを呆れさせた。
その日はそれで帰ったものの、その後なんどもアポをとって本多さんのもとへ通った。断られているのにアポを入れる方も入れる方だが、本多さんも「だから売れないよ」と言いながら、アポを断ることはなく、その都度つきあって話を聞いてくれた。
それからしばらくして、双葉社は正式に契約をし、作品を定期的に提供してくれるようになった。時には自社でもまだ電子化していない作品を提供してくれることもあった。ただ、決して私の熱意が本多さんを動かしたのではない。本多さんの言う「電子書籍は売れないよ」の前には「今はまだ」という言葉が隠れていたのではないだろうか。本多さんは、いつか電子書籍が売れる日がくることが分かっていたのだと。だから、「そろそろいいかな」と、作品を提供してくれたのではないだろうか? それに、目黒氏が書いているように本多さんは“やたら好奇心が旺盛な人”だったのだ。
本多さんと出会って数年後、定例の打ち合わせに訪れると「仕事とはいえ、大変だね。あんたみたいな営業、何人いるの?」と聞かれた。同じような年代の女性があと3人いると答えると、一回全員連れておいで、と言って酒席を用意してくれた。本多さん行きつけの飯田橋の居酒屋で、本多さんを囲んで女性が4人。最初は緊張していた私達だったが、本の話、最近の出版事情などについて熱く語っているうちに、気付けば焼酎のボトルがゴロゴロ……。店にあるその銘柄の焼酎を飲み尽くしてしまったのだ。しかも、その日は取り引き先である本多さんにご馳走になってしまったという大失態。
それ以降、本多さん発案のもと「飲み会会」(飲み会のための会という意味)という名の不定期の飲み会を開催することになった。きっと好奇心旺盛だった本多元青年は、初の酒席で遠慮もせずに浴びるように酒を飲む妙齢の女たちを面白いと思ってくれたのだろう。飲み会の度にいろんな人を連れてきては紹介してくれた。自社の後輩のこともあれば、取り引き先の人、制作会社の人であることもあった。新しい人がくる度に、「この人たちは、初の飲みの席で焼酎を浴びるほど飲んだ」と話すのには参ったけれど、自分の人脈を惜しげも無く紹介してくれたことは、今でもありがたく思っている。
その本多さんがある時「あんた達、会社を作りなさい」と言ってきた。最初は冗談かと思っていたが、「作るだけで休眠状態でもいいから。いつか役に立つときがくるから」と税理士まで紹介されどんどん話が進んでいくではないか。そしてできたのが、今、私が社長を務める会社だ。
2018年、残念ながら本多さんは病でこの世を去った。まだまだ話したいこと、相談したいことがいっぱいあったのに。「本の雑誌」と同列に語るのはおこがましいが、我が社も「本の雑誌」同様、本多さんがいなければ存在しなかった。本多さんには感謝してもしきれない。
昨年、小さいながらも我が社は創業から10年を迎えた。その節目に目黒氏の訃報に触れ、その著書『本の雑誌風雲録』(角川文庫)を改めて読んでみた。あの頃の時代もあるだろうが、お金儲けではなく、誰もがやっていないことを、みんなで面白がってやっていた熱のようなものが伝わってきて、久しぶりに胸がざわざわした。
最近こんな風な冒険をしていないな。きっと本多さんがいたら「もっとやれ」と言うだろうな。面白い先人たちがいなくなってしまうのは本当に寂しいし残念だ。遅ればせながら目黒氏のご冥福をお祈りします。
そしてこの節目に、自社のHPでこのように思い付いたこと、書き残しておきたいことをつらつらと綴っていこうと思う。この会社を一緒に立ち上げ、本多さんに「浴びるように吞んだ女」と言われた仲間とふたり、大好きな本と酒、人などなどについて「吞読(のんどく)通信」と称して不定期で発信していく。もしよろしければ、お付き合いください。
株式会社imago 代表取締役 濱中香織